京都大学名誉教授の久保田競先生(大脳連合野研究の第一人者で大脳生理学の世界的権威)がこう仰ってます。「脳力をよくするには、おいしいものを食べましょう」。拍子抜けしそうな話ですが、当然ながらこれには理由があります。おいしいものを食べると、快感や満足感、至福感を感じますが、この時、脳幹の中の腹側被蓋野(ふくそくひがいや、ventral tegmental area, VTA)と呼ばれる神経細胞が集まっている部分が刺激されます。刺激を受けた神経細胞(VTAニューロン)は末端で、神経伝達物質のドーパミンを分泌します。このドーパミンの分泌は、腹側被蓋野から神経細胞でつながっている前頭葉に達し、前頭葉の働きを高めてくれます。そして、前頭前野にあるワーキングメモリーや側座核(そくざかく、Nucleus accumbens, NAcc)の働きをよくするのです。 同時に、ドーパミンは運動をつかさどる一次運動野(いちじうんどうや、Primary motor cortex)に伝わり、スピード力や筋力を高め、前運動野にも伝わり更に運動のスキルを向上させるという効果をもたらします。
ただし、食べ方には注意が必要で、空腹感を感じてから食べることです。間食はやめて三食を時間をおいて食べるようにしましょう。空腹感を感じないのにおいしいものを食べても、ドーパミン系のシステムは働きませんし、ジャンクフードやお菓子など栄養的に問題のあるものは避けるようにしましょう。 空腹感を感じるためには、多少の運動や脳の活動が必要です。つまり、食事の前後は体を動かし、声を出し、考える時間を意識的に持つようにすることです。
食事が重要な事は言うまでもありませんが、同じ食事でもよく噛む事に大きな意味があります。噛む動作で唾液が分泌されますが、唾液が分泌されると神経成長因子(神経の軸索を伸ばし、神経伝達物質の合成を促進し、傷ついた神経細胞を修復し、機能を回復させ、老化を防止する)が生み出されます。この「噛む」→「唾液が出る」→「神経成長因子が生み出される」→「シナプスの数が増え、軸索が伸びる」→「シナプス活動が活発になる」→「認知機能が強化される」のサイクルは是非意識していただきたいものです。
噛むためには歯が必要です。高齢者には入れ歯を使う方が多いですが、入れ歯が合っていないと噛む事(食事)を楽しめません。ですので、自分にあった入れ歯を使うことが大切です。入れ歯の適合が『良好』な群では45%の対象者が認知症と判定されたのに対し、適合『不良』群では75%が認知症と判定された」という報告もあります。
実は、ある歯科医から聞いた話ですが、何度作り直しても入れ歯があわない、という患者さんがいるそうです。逆に一度目の入れ歯を長く使う方もおられると。違いは何かと聞くと、入れ歯を自分にあわせようと考えるか、自分を入れ歯にあわせようとするかの違いだということです。いくら精巧に作ったとしても所詮は異物なのだから、(妥協して)自分からあわせようとしないといつまでもしっくりする入れ歯とは出会えないそうです。
さて、よく噛むには流動状の食品ではなく、噛み応えのある食品を選ぶ事が必要です。しかし、必要なのは固さではなく、噛む動作に時間をかける事なのです。目標としては一口で30回噛むように心がけましょう。
日本疫学会2012において、九州大学の小澤未央氏は、認知症リスクを左右する食事傾向についての調査研究の成果を発表されました。その内容は、久山町研究の1988年健診に参加した60歳以上の1006人を17年間追跡したもので、結果は次の通りです。 1回の食事において「大豆製品と豆腐」「緑黄色野菜」「淡色野菜」「藻類」「牛乳・乳製品」の摂取量が多く、「米」の摂取量が少ない食事パターンは、認知症発症のリスクを有意に低下させることが示された。本研究結果から、1回の食事において米の摂取量を減らした分、大豆、野菜、および乳製品で作られた食品を多く摂取する食事、つまり野菜類の摂取を心がけた食生活は、認知症の発症を予防する可能性があると考えられる。 私達が普段食べている白米は、まさしくむき出しの糖質なのです。美味しいですが、この食事傾向が糖尿病経由で認知症発症行きリスクを高めているとすれば、白米大量摂取の食習慣を、低糖質で高タンパク質の食事に変えることで認知症発症リスクを抑えることに繋がる、と言えそうです。
毎月、認知症をテーマにした特集がテレビや雑誌で取り上げられ、今でも「これを食べれば認知症が治る」といった見出しを見ることがありますが、残念ながらそんな都合のいいものはありません。
ポリフェノールを含む赤ワインやオリーブオイル、ココア、クルクミン、シナモン、イチョウ葉、L-カルニチン、ニコチアナミン、アスタキサンチン、アントシアニン、テアニン、カテキンなどの栄養成分については拙著「ならない認知症と増やさない社会」で詳しくまとめておりますので、気になる方はお読みください(こちらにまとめてあります)。
久保田競先生は次のように仰っています。ウォーキングマシンで時速3km(軽いウォーキング)、5km(早歩き)、9km(ジョギング)で一週間毎日続けて運動した人の脳を調べると、3kmでは運動野の4野が働き、5kmでは4野と前運動野の6野が働くことがわかりました。4野と6野は運動を司る部位なので働くのは当たり前なのですが、注目すべきは9kmの速さでジョギングした時です。この場合、前頭前野の46野あたりが働き始めます。ここは、前述のワーキングメモリーにあたる領域で、短期記憶をキープしたり情報分析したり、計画を立てる時に使います。この領域が働くということは、頭の回転が早くなるということです。 この実験から、ゆっくり歩くよりも軽く走った方が脳を鍛える効果があるということがわかります。
さらに、効率よく脳を鍛えるには頭を使いながら運動することが効果的だとわかりました。ジョギングする時も考え事や簡単なテストをしながら走ると前頭前野の10野が働きます。10野は人間に特有の部位で計画的に物事を進めたり、創造性を発揮する領域なのです。
さて、久保田先生の実験から見えてくるものは何でしょうか。人の脳は環境の変化に対応するために五感のインプットをいち早く脳内記憶と参照し、最適解を引き出そうとします。環境変化が早いと、最適解をアウトプットするための時間も短くしなければならないため、脳は記憶の取り出しのために身構えます。その時前頭前野の10野が働くのでしょう。コンマ数秒後に起こるであろう変化にどう対応すべきかを判断するために、脳は複数の選択肢を用意し、瞬時にひとつを選ぶ。
五感からインプットされる情報に対しどう反応すべきかを決断する時、脳は鮮やかな手品のように、ひろげられたカードの中から一枚を取り出し、残りのカードを元に戻してしまうのです。この瞬時の変化に対応する一枚のカードを選び出すため、脳は繰り返し手持ちのカードの中身を確かめるのです。 逆に言えば、手持ちのカードを取り出すトレーニングが脳の活性化を促進するのです。
自分の周囲に何が起こるかわからない、どんな変化が訪れるかわからないとき、私たちは注意深く観察します。周りを見渡し、耳をそばだてて、変化に対応しようと活動します。そのとき脳はよく働き、逆にじっと座ったままでぼんやりしていると、変化の予兆は感じられませんから、脳はリラックスしてしまい、神経伝達物質は放出されず、シナプスは低調なままなのです。
更に、運動をするときには汗をしっかりかくことが大切です。汗をかくことで交感神経の働きを高め、脳の神経細胞をさらに効率よく増やすことができます。生物のなかで全身に汗腺があり、発汗機能が高いのはチンパンジーと人間だけなのです。普通の猿は、木陰で生活をする習性があるため、暑くてもジッとしていればしのぐことができました。そのため、汗を出す必要がなく、発汗機能があまり発達しませんでした。一方、チンパンジーは森のなかで常に動き回り、人間は草原を走って獲物を追いかけて生活してきたので、発汗機能が発達しました。特に人間は、汗を出しながら走ったことで脳が進化してきたため、今でも運動して汗を出すことで脳を刺激しているのです。