健康なもの忘れは、忘れている自覚があります。前後関係は覚えていますので、思い出そうと努力して、ヒントが与えられれば思い出します。一方、認知症のもの忘れは体験全体を忘れてしまうのでヒントがあっても思い出せません。更に忘れている自覚がありませんから、忘れていることを責められると、不機嫌になります。
認知症の症状は大きく分けてふたつあります。
ひとつは中核症状と呼ばれる認知障害(記憶障害、判断力障害、実行機能障害、見当識障害、失行、失認、失語の障害など)で、ふたつ目は周辺症状(暴言、暴力、徘徊、不潔行為など)と呼ばれる問題行動です。
特にこの周辺症状が激しくなると自宅介護が困難になり、一般の医療機関でも対応ができず、精神科病院に入院し薬物療法や隔離、身体拘束の結果、家族からも孤立して、やがて長期療養可能な病院に転院し、最期を迎える、という酷い経路を辿ることがありました。
一方で、周辺症状が軽く(目立たず)中核症状だけに見える場合も多く、辛うじて日常生活を送り続ける認知症患者は珍しくありません。一見、特に変わりなく、生活を送っているように見えますが、会話をすると同じ話を繰り返したり、探し物を何度も繰り返したり、着衣が季節外れだったり、自宅が片付かぬままゴミが放置されているなど、注意して観察すれば判別はつきます。しかし、その状態がその方の一時的な不調が原因なのか、認知症の為なのかは、時間をかけて観察しなければ判断はできません。
さて、毎日自転車で出かけて買い物をし、食事をして、にこにこしている方が、実は認知症だったと言う事があります。長い会話をして初めて気づくような認知症の人はおられるのです。でも、そのように日常生活を過ごせるのであれば、それはそれで良い事でしょう。大切なのは家族やご近所の方がその事を許容して接する事です。コミュニティのサポートで認知症の人が事故や怪我に遭わないような気配りがあれば、地域でそのまま暮らし続けることは何も問題になりません。
認知症の多くの方に見られるのが、会話の言葉が減ってくることです。進行具合により「あれ、する」「これ、やね」などが増えて、具体的な名詞と動詞が減ります。私たちは生まれてから今に至るまで、五感を通じて世界の物事を脳に入力してきました。五感の記憶に言葉をパッケージ(同一化)して、脳に繰り返し書き込んできたのです。それらは次第に確かな記憶として定着し、類似の入力がある度に呼び出され、新たな回路を増やし同一化は強化されてきました。
認知症は「同一化が強化された記憶」の回路が次第に失われた(阻害された)ために、思い出せない、できないことが増えた。周囲の人が不審に感じる(アイデンティティを切り下げる)行動が増えた。そう考えると、中核症状と周辺症状に表わされている症状はだいたい説明できるように思います。
世間でよく言われる「認知症の人は何もできなくなる」「忘れてしまった」「覚えられない」といった、乱暴な決めつけは、周囲の人の期待値(礼節にあった振る舞いや外向きの顔)を失うようなアイデンティティの喪失が想定を超えて印象付けられてしまった結果なのです。
だって、箸を持って食事ができる。袖を通して服を着れる。包丁で野菜を切って、フライパンで炒めることができる。ピアノを弾いて歌を歌える。重症でなければ、こんなことができる人が珍しくないのですから、説明がつきません。私には「記憶は残っているが、呼び出すことができなくなり、次第に言葉も出てこなくなった。状況把握に時間がかかり、疲れて果てて動作が緩慢になっている」というのが正しいように思えます。